画家の死後:内藤瑶子の生前日記

自称絵描き|内藤瑶子のナイトー自身による、活動報告のブログです。/ 東京近辺で活動中。詳しいことはhttp://yokonaito.info/へ。

グループ企画「装幀画展Ⅳ」/ 荘子の神秘主義

今日から~11日(日)まで、麻布十番のパレットギャラリー(http://palette-gallery.jp/)にて、グループ展「装幀画展Ⅳ」に一点出展しております。
自分の好きな小説を勝手に選び、妄想で装幀する。本当に楽しい企画です。
 
詳しくは前のエントリに書きました↓
私が選んだ「ヴァリス」という小説は、小説の作者ディックによる実際の神秘体験がモチーフになっているそう。
作者によれば、ピンクのレーザー光線が頭に照射され、抽象画を沢山見たとか見てないとか、その体験の影響下でこの作品も生まれたらしい。
ということで、私が作った版画作品もピンキーな感じを損なわないように留意。だいたいA4サイズくらいのもので、二枚セットです。
 
装幀の文字組などは、装幀を含むデザインの会社「株式会社コイル」を経営、またディック信者でもある世古口敦志さんが協力してくださいました。
恐縮ながらプロってやっぱりすごいです!
 
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教科書的な宗教の分野では、神秘体験者はその最中、自我が無化する、あるいは主体を失いやすいとされている。小説の中でも著者と主人公、登場人物や「あいつ」といった人称が混沌と入れ替わり立ち代り、イワユル「近代的自我」は超不安定な状態で描かれている。*1

 
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時間空間を無視して主客が混沌とできる人、と言えば荘子
小説の世界と荘子の思想(万物斉同とか)は、どことなくムードが似ている気がして、いろいろ荘子関連のものを引っ張り出して読み返してしまった。
 
老荘思想といっても老子ばかり人気があるのは、荘子があまりにも論(理屈)としてブッとびすぎているからだと思うのだが、なんだかずっと嫌いになれない思想家だった。
 
荘子の自我の混濁や神秘状態は、なんだか漢文という言語の印象もあって、展開が唐突に感じることが多いんですよね。この小説は英語だからなのか、主語が入れ替わるというのが主な感じでした。

ザックリを承知で言えば、「この世の中は全部クソ」と「この世の中、全部OK!」は相対的な認識を排除、超えていってしまうという点では共通項があるような気もしてくる。*2
 
全て同じ考えを持った人間のみの世界だったら、もう特に何かを表現する必要はないのと一緒なのかもしれない。
白いゴムボールしか存在しない世界だったら、もう良し悪しもクソもない。白以外の色はないし、究極ゴム以外のものは語れない。*3
 
均質なものを前にすれば、それを解析する言葉は失われていってしまう。ただあるものを述べるしかない。その語りが真実の記述なのか、空虚で狂った妄言なのかは紙一重ということなんでしょうな。
 
 
 
 
 
 
 

*1:大変なワードを使ってしまった。。「ヴァリス」の文学的、思想的意義などに踏み込んでいるこの本

 ほんと面白かったです。批評ってすごい!ここまで考えられるのか。と、素朴に感動しました。

*2:もちろん「あの世」に「正しい神」という新たな相対物をもってくるグノーシス風ディック教と荘子では、宗教的信条からすれば比較にならないほど違うのだが。

*3:究極にはまったく動かず変化もしない白いゴムボールになるというか、不動の動者ですわな