画家の死後:内藤瑶子の生前日記

自称絵描き|内藤瑶子のナイトー自身による、活動報告のブログです。/ 東京近辺で活動中。詳しいことはhttp://yokonaito.info/へ。

なんとかやってます / 近況

個展も終了して、もう一か月経ちました。はやいものです。
なんとか続けられそう。大きい展示が終わると「もう作家とかやめるかも…」ってくらい燃え尽きちゃう感あるんですけど、今回はちょっと目線が上むきです。


みなさまの応援・ご支援があってこそでございます!!m(__)m

改めまして、お客様・お世話になった方々に感謝申し上げます。

展示風景や作品などは、ウェブサイトに少々アップしたりしています!

yokonaito.info

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最近は何かと文章をいじっていることが多くて、肝心の画像の締め切りなどを忘れていたりする。おいおい!

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私が調査したりするのはほとんど物故作家(死んだ作家)。そういう興味の上で、知り合いのコレクターの方に手放した作品やコレクション放出・整理のことなどの話を聞くにつけ、作家の文章やまとまった資料・アーカイブがあるなしで、作品の見られ方が大きく違うことに大変な歯がゆさを感じてしまう。

特に、反アカデミズム系の画家は作品についてあまり語っていないことが多い。むしろ拒否しているように見えることもあるし、こっちが聞きたいことが資料や記録として残っていないまま亡くなっているケースもあるように思う。

そもそも画家にとって、「言葉」の捨象力に拒絶反応があるのは通常運行
もちろん、作品は作者から離れて、自律した存在であるべきだとは思うのだけど。

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先日まで羽黒洞で開催されていた「抒情の画家- 佐熊桂一郎・古茂田杏子 二人展」の佐熊桂一郎も、作家目線からは本当に面白い作家。このまま忘れられていくのはしのびなく、絵や作家にまつわることを筋立てて語ってしまいたいという欲望が抑えられない時がある。

人や作品なんて、一貫性をもった言葉で表せるはずがないのにね。 

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これが佐熊桂一郎特集が13頁も掲載された『みづゑ』1971年4月号だ!

もちろん、文脈の依存度が高い作品もあれば、低い作品もある。私はドアカデミックな現代美術をフォローしてきたわけではないし、骨とう品や物故作品の中で活動してきたから、言葉から離れた物の行き先に関する一種の無常観(?)がないわけでもない。

なくなるものがあるからこそ、今あるものに注視できるのだから。

うーん(-ω-;) まあ、いろいろ資料を集めてみてから考えよう。

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最近読んでいた本の訳者後記より。

「要約からは多くのものが抜け落ちる……それ自体としてはけっして間違いとはいえない要約からは本書を本書たらしめる『何か』が抜け落ちる」

大概これで、私は人をがっかりさせている気がする。

それにしてもこの本の説教、ささるな~人物や作品の概説なんか、一言も書けなくなりそう。

ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫)

ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫)

 

 

そして、ジンメルに続いてまたもや論述しない袋小路タイプの思想にはまる泥沼。今まで自分がこういうのが好きだって気づかなかった。。